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すし切り祭りの下新井神社と物部氏の関係 滋賀県守山市 [ 神社仏閣]

滋賀県シリーズ最終回は、とんちゃんが立ち寄った、とある神社のことです。

滋賀県の有名な郷土料理に鮒寿司があります。
琵琶湖のニゴロブナなれずし(熟れ鮨)で、乳酸醗酵していて臭い。
いや醗酵したチーズが好きな人には、大変に美味です。\(^▽^)/

その鮒寿司を古式にのっとる作法で神に献上する「すし切り祭り」が行われる神社があります。
野洲川左岸の守山市幸津川(さづがわ)町にある下新井(しもにいかわ)神社です。

裃(かみしも)姿に脇差を差した若者2人が真魚箸(まなばし)という鉄製の箸と包丁を両手に持って、まな板に載せられたふなずし10尾を切り分ける、というもの。古式の包丁式ですね。
その後に行われる「長刀振り」「諫鼓(かんこ)の舞い」とともに国の無形民俗文化財に指定されているそうで、その祭り全体は「ケンケト祭り」という変わった名称がつけられているそうです。
祭りは5月4、5日に催され、すし切は5日の正午に行われるそうです。

ことしの祭りはもうすぐです。ご興味のある方はお急いぎください。
守山ガイド:http://www.moriyama.gaido.jp/kankou/maturi/susikiri.html

P1000940

下新川神社
「下」ということは「上」があるんだろうか・・・。 はい、あるんです。それは後ほど。

P1000941

さすが立派な鳥居です。
参道の砂利もきれいに整備されている。

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【由緒略記】によると、主祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と新川小楯姫命(にいかわこたてひめのみこと)。
豊城入彦命は崇神天皇の第1皇子、新川小楯姫命は近江の国神で地の司水神とのこと。
この祭神のことも後ほど書きます。

由緒によると、祭神の豊城入彦命が東国平定のために湖西から丸太のイカダで渡ってきて、この地を平定し、幸津川の里と命名したとあります。
そのときに、鮒寿司を献上したところ大層喜んだ、という故事が鮒切り祭の起源とされています。
霊亀元年(715年)に小さな祠が建てられたのが神社の始まりらしい。

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例大祭はその5月4、5日です。

参道の突き当たりに倉があって、そこを左手へ曲がると社殿があります。

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入母屋造の大きな拝殿があって、その後方に本殿があります。

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手前に中門があって、垣の中に本殿があります。

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檜皮葺の大きな覆屋根。

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中門から本殿を覗いたところ。

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市の指定文化財が3つあるそうです。最後にすしきり祭りのことが書いてあります。

この神社の由緒について調べてみました。

ここは下新川神社ですが、同じ守山市立入町には新川神社という神社があります。
しかも野洲(やす)川を挟んだ対岸の野洲市にも新川神社がありまし
2つの新川神社は野洲川を挟んでまさに向き合ったような位置関係です。
ここ下新川神社と合わせて3社はどういう関係なのでしょうか。

平安時代中期に編纂された「延喜式」には、近江国野洲郡に「上新川神社」と「下新川神社」があるそうです。
下新川神社はこの記事で紹介した神社ですが、上新川神社はどっちの「新川神社」なのか。

そもそもなんでて上・下の新川神社ができたのか。

守山市立入町の新川神社の社伝によると、霊亀二年(716年)に大新川神霊を野洲・幸津川二邑に分祀する、とあるそうです。
新川神社(守山市):http://www.genbu.net/data/oumi/niikawa2_title.htm

こういう記述もありました。

野洲川下流域には3つの新川神社があります。すなわち、野洲町野洲の新川神社守山市立入町の新川神社(上新川神社)、すしきり祭で名高い守山市幸津川町の下新川神社です。3神社は9世紀の『日本三大実録』にその名がみられ、暴れ川野洲川を鎮める司水神をまつった古社です。上新川神社の社伝によれば、霊亀2年(716)野洲川が大氾濫し、新しい流路をつくったので神霊を対岸の野洲と下流の幸津川に分祀したと伝えています。
国土交通省 近畿地方整備局琵琶湖河川事務所「野洲川風土記」
http://yasu.biwakokasen.go.jp/kurasi/inori/jinjya/

野洲川の氾濫で分祀されたようです。
時期は霊亀2年(716年)で、下新川神社の由来にあった霊亀元年(715年)と1年違い。

このあたり一帯はもともと立入庄と呼ばれた古郷であり、野洲川の氾濫によつて立入庄が二分されて、一方は野洲町に、一方は旧守山町に分離したのである。おそらくその折に、分割された方の立入庄にもとの鎭守神たる新川社を奉祀した(当社)ので、結果として新川神社は河を挟んでの二社を存することとなった。http://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220406-02.html

新川神社は立入庄にあったのですが、野洲川の氾濫で立入庄が二分されてしまったので、分離された方に新たに新川神社が分祀され。さらに野洲川下流の幸津川邑にも分祀され下新川神社になったということのようです。

 

次に祭神について。

3つの神社の祭神はこうなっています。
(以下、天璽瑞宝「野洲川流域の神々」、玄松子の記憶ほかを参照。)

守山市立入の新川神社:小楯比売命
野洲市野洲の新川神社:須佐之男命、奇稲田姫命、大物主命
下新川神社:豊城入彦命、新川小楯姫命

立入の新川神社と下新川神社の祭神は小楯比売命新川小楯姫命で同じです。

この小楯姫命野洲郡を支配地とした三上祝(御上祝)(ミカミノハフリ)氏の女です。
三上祝氏は三上山を神体山として、天御影命を祭神とする御上神社を祭った氏族で、今も神主です。
(三上山は下の地図を参照ください)

その三上祝氏は3代にわたって女を物部氏に嫁がせています。
同名の天御陰命は、「天神本紀」によると物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)に付き従って降臨した神ということになっていて、三上祝氏は物部氏と親しい関係にあることがわかります。

饒速日尊の3代後の出石心大臣命に嫁いだ三上祝氏の女性が新河小楯姫命です。
その小楯姫命が、氾濫を起こす野洲川を鎮める神として祭られた。
「近江の国神で地の司水神」というのはそういう意味でしょう。

 

ところで、先ほど守山市立入町の新川神社の社伝で、大新川神霊を幸津川に分祀したということを紹介しました。 これが正しければ、その大新川神が主祭神だったはずです。
大新川神とは、大新河命のこと。
大新河命は、崇神の次の垂仁朝に物部連を賜った人で、物部氏の祖の1人。 小楯姫命よりも後代の人です。
先の社伝に従うなら、新川神社の祭神はその大新河(川)命ってことになる。
下新川神社、さらには新川神社の祭神は、大新河命と新河小楯姫命だったのかもしれません。

 

下新川神社のもう1つの祭神である豊城入彦命のこと。
崇神天皇の子ですが、その母は物部氏の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。
非常に面白いことに、その異母兄弟の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が大新河命の父なのです。
だから大新河命は、崇神天皇の従兄弟であり、豊城入彦命のおじなのです。

幸津川の地は、かつては船着場でした。
物部系の豊城入彦命が、物部と関わりの深い三上祝氏の地、幸津川にゆるりと立ち寄った、かもしれません。
しかし両新川神社の祭神に豊城入彦命はいないので、下新川神社が創建された後に、すし切祭りとの関係で祭神に加えられたのだと思います。

 

野洲市野洲の新川神社の祭神は、須佐之男命、奇稲田姫命、大物主命でした。
須佐之男(スサノヲ)は天照大神の弟ということになっていますけど、本来は出雲の神で、大国主命の先祖です。
奇稲田姫(クシイナダヒメ)はその妻。スサノヲが八岐大蛇から守った姫です。
大物主命は、大国主命と同じとされたりします。
そうだとすると、祭神はみな出雲の神ってことになって、新川神社の由来とは全然関係ないことになる?
そうでもなくて、歴史的に関係があるようなのだけど、説明が混乱するからパスします。

しかし大物主は大国主ではありません。
大物主は奈良の三輪山の神で、先に紹介した物部氏の祖神とされる饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)なのです。
三上祝氏が建立した新川神社の祭神に、物部氏が祖神とする大物主を置くことは大きな間違いではない、ってことになります。ともあれ本来の祭神ではないようです。


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