So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

五段御取持のラフテー-ラフテーの由来(10) [ 沖縄と食]

ラフテーはかつては客膳料理ではなかったが、昭和40年代には客膳料理になっていたと安次富順子氏が書いていることを「ラフテーの由来(5)」で紹介しました。
しかし戦前には、ラフテーや角煮が客膳料理になっていたようです。古波蔵保好は次のように書いています。

 

琉球料理店「美栄」のサイトに「五段御取持」が再現されていることを同じく「ラフテーの由来(5)」で紹介しました。そこには古波蔵氏の文章が載っています。
この文章は、『料理沖縄物語』(1983年、作品社)に「今は幻の五段料理」として収録されているものです。(1990年に朝日文庫から再刊。両者ともに品切れ。)

その中で古波蔵氏は次のように書いています。
「かつてわたしが経験することのできた最高の正餐は、「三献の料理」だった。
「三献」とは、一の膳にはじまって三の膳におよぶ饗応を意味している。膳部はとりどりの味で、料理に現れた沖繩の文化を知るのに適した正餐だったといえるだろう。
……昭和八年か九年のことである。宴席が設けられたのは、那覇市の「辻」と呼ばれるところ、弦歌さんざめく色街と通りをへだてて軒をならべる料亭の中で、もつとも格式の高い「三杉樓」だった。「三杉樓」は、琉球料理の伝統を忠実に守っている店で、古くからのしきたりにも通じでいたのである。」
その「三献の料理」で、二の膳に「角煮」、三の膳に「らふてえ」が出されているのです。昭和の初期には、客膳料理の本膳である二の膳には「角煮」、そして三の膳には「らふてえ」が出されていたということです。

ところでこの文章は、古波蔵氏が「三献の料理」を食べたときに書いたものではなくて、その後に書いたものです。にもかかわらず古波蔵氏は食べたメニューを非常に詳しく再現しています。だとすると大変に記憶力のいい人です・・・。

古波蔵氏の文はさらに進んで、那覇市長から戦後(1956.11.11-1959.11.10)、琉球政府の第2代行政主席となった當間重剛氏の夫人・信子氏が「五段の料理」を詳しく覚えていたので、「五段の料理」について尋ねたことがあると書いてある。「五段の料理」は「三献の料理」の二の膳と三の膳の間に、「東道盆」(とぅんだあぶん)と「大平」(ううふらい)が出てくるものだと書き、その詳しい内容を書いています。

古波蔵氏はこのとき、実は、「東道盆」と「大平」だけでなく、「三献の料理」についてもその内容についても取材したのではないか思います。この文で紹介されている「三献の料理」は、古波蔵氏の記憶による再現だけではなく、當間信子氏の説明に基づいて書かれたものではないかと思うのです。

當間信子氏が語った「三献の料理」がいつの頃のものだったかはわかりません。この文のように昭和初年の「三献の料理」にラフテーがあったかどうかは、やや疑わしいところがあるのです。

しかしもしもこの文が語るようになことだとすると、戦前の時期にラフテーが「三献の料理」に加えられたものと考えていいかもしれません。
そうだとすると、辻や那覇では、戦前からラフテーが客膳料理の1つに加えられていたのでしょう。

ただしその料理方法は、現在のようなものではなかったのでしょう。
すなわち「泡盛と砂糖を入れて七輪にかけ、二、三日がかりでゆっくり炊く。醤油は仕上がりの前に入れる。」(『聞き書沖縄の食事』1988年、農山漁村文化協会)という調理法で作られたものでしょう。そしてその味は今より濃かった。きっと泡盛は加えていたでしょうが、食感は「噛みごたえがあるていどの堅さがあった」(古波蔵保好「美味なるらふてえ」『沖縄料理物語』1983年、作品社)ものでしょう。

ところで最後に。「美栄」のサイトでは、「五段御取持」の再現について「この五段料理は當間信子氏の資料に基づき琉球料理「美栄」の協力を得て再現いたしました。」と注書きしてあり、この再現は「戦後初の試みである」としています。
これはいつのことなのか。
「昭和57年6月1日 文芸春秋社 発行 くりま掲載より転載」とあります。『くりま』は文芸春秋社発行の季刊誌です。そこにこの注記を含む文と写真、すなわち五段御取持の再現が掲載されたということでしょうか。
だとすると、古波蔵氏の文は、実はその再現を解説するためのものということになりそうですが。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:グルメ・料理

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 1