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遠藤哲夫著「大衆食堂の研究」を読む(2):大衆食堂の歴史 [食文化]

遠藤哲夫『大衆食堂の研究』(1995年、三一書房)というスゴイ名前の本の紹介をしています。

大衆食堂の研究―東京ジャンクライフ

大衆食堂の研究―東京ジャンクライフ

  • 作者: 遠藤 哲夫
  • 出版社/メーカー: 三一書房
  • 発売日: 1995/07
  • メディア: 単行本

 

この本はとっくに絶版ですが、著者がネットで全文公開していますので、そこで読むことができます。
 http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm

「研究」なんて大それた題名だけど、実は編集者が題名に「研究」をつけたまでで、と著者は言っています。でもなかなかに研究的なアプローチがあります。

今回は「大衆食堂」の歴史の部分を紹介しましょう。

激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道

この編で大衆食堂の研究的なアプローチがされています。
まず今に残る大衆食堂とは何か、が語られます。

昭和30年代前半は、大衆が舞い上がる時期であり、食堂が解き放たれた鳥のように舞い上がる時代であった。
松本清張の傑作、『黒い画集』の『紐』には「大衆食堂」がまるで主人公のようにあらわれる。(p.122)
東京の大衆食堂はこの時代に急成長し、ひとつのトレンドだった。大衆食堂は、昔ながらの暮らしの大衆が、新しい暮らしにむかう、発射台のようなものだったのかもしれない。(p.128)

そして食堂の歴史的な考察があります。

『大衆食堂パラダイス!』でも大衆食堂の歴史が要約的に書かれていいますが、本書ではそれが詳しく考察されています。

まず食堂の実体的な誕生は・・

「いまの「食堂」はどういうところで、他の飲食店と区別されるのかというと、「白めし」をくわせるのが主な業だと考えるとわかりやすい。(中略)
大衆と白めしと飲食店が重なるあたりに、食堂のはじまりを求めることができる。となると明治の中期以後ということになるらしい。(中略)
米の安定的な自給と、白めしの常食の定着は、昭和30年代以後の、新しいことなのだ。」(p.133)

「食堂」という言い方は・・・

「食堂が食堂であるのは、テーブルにイスでめしをくうスタイルを採用しているからである。つまり、ダイニング・ルームね。(中略)明治32年(1899年)、食堂車が山陽鉄道に初めて登場。明治34年(1910年)食堂車が東海道線もはしる。明治40年(1907年)三越に食堂ができた。」(p.135)
「大衆食堂へむかっての動きは激しくなる。昔ながらの一膳めし屋、大衆化する西洋料理店、そしてカフェー。入り乱れ、それぞれがそれぞれの安泰をめざす。いろいろな流れが集まっては分かれ、飲食店は時流のなかで生きる。」(p.136)

座敷ではなくテーブルで食事をするという明治以降のスタイルがまずは前提。
そして明治中期以降に誕生した一膳めし屋西洋料理店カフェーが入り乱れて、昭和30年代以後に白めしを食わせる「大衆食堂」へ繋がっていったとおおまかな道筋をつけています。

 

そして「大正時代に大衆食堂の原型が生まれた」としています。

「大正末から昭和の初めには、貧乏な都市生活者が膨張する。この時期、「大衆」という言葉が流行語になるほど、大衆現象があった。食堂も、その大衆現象だし、ここで、大衆とめしと食堂、それに洋風の風潮が、完全に交わった。
となれば、「大衆食堂」という名の出現も、この昭和の初期あたりから可能性はあったとみていい。」(p.135)

 

ついに「大衆食堂」が公式の名称になる。

「昭和13年(1938年)5月、東京府料理飲食業組合大衆食堂部ができる。ついに、やっと「大衆食堂」の時代だ。」(p.144)

筆者はブログでこう書いてあります。「大衆食堂の呼称と歴史」
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2006/10/post_2944.html

「大衆食堂」という呼称が生まれた時代だが、これは割とハッキリしている。「大衆」という言葉が流行する昭和の初め1925年前後から、昭和13年(1938)に東京府料理飲食業組合大衆食堂部がきるまでのあいだと見てよいだろう。」

しかし日本は戦争へと突入します。

「真珠湾攻撃の年の昭和16年4月1日、ついに六大都市で米は配給通帳制になり、外食は外食券をもたないとダメという外食券制が実施。5月、大衆食堂部は、外食券食堂部となる。」(p.144)

戦時中の1945昭和4月、外食券食堂部は都営食堂と統合して財団法人東京都食堂協会となった。
戦後の1950年、朝鮮戦争が始まり、日本はその影響で景気がよくなる。そして1951年に東京都食堂協会が東京都指定食堂協同組合となる。
「外食券食堂」から「指定食堂」へ移行したのですが、その当時はまだ米の流通には統制がありました。
自由販売ではなく配給制度があったのです。
それで食堂は、米の配給の便宜が図れる「指定食堂」に集まったのです。

面白いのは、当時の食堂とは「指定食堂」のことで、それ以外に主食の提供をしていた店は「ミルクホール」とか「喫茶」という別名称の看板をかかげていたのだそうです。
しかしこれらも実質的には食堂をやるヤミの営業だった、配給米じゃないヤミ米を使った営業だったそうなのです。

1955年に米飯販売の統制がなくなると、本格的な「民生食堂」の時代になった。
こうして「昭和30年代前半・・・食堂が解き放たれた鳥のように舞い上がる時代」が到来したのです。

しかしその後、状況は急速に変化して行きました。
1964年の東京オリンピックを境に東京は変貌するのです。

「60年代の前半と後半では、大衆食堂の環境もかわったし、大衆の意識もかわった。だのに、なぜだろう、この環境と大衆の動きに、大衆食堂たるものがついていかなかったのである。」(p131)

多くの大衆食堂は、昭和30年代のままだった。地域の東京に生きる昔ながらの渡世だった。しかし、そのめしをくった大衆の大勢がむかったところは、新しい暮らしがあるハズの、産業と消費の全国市場の東京だった。
大衆は、大衆食堂を飛び立ったまま、帰らぬ人。いまでは、ずっと先の「オシャレ」な生簀に散ってしまった。おかげで、かどうか、大衆がいなくなった大衆食堂には、昔ながらの東京の暮らしが残ったというわけである。」(pp.131-132)

昭和30年代前半(1955~1959年)に成長した大衆食堂は、しかし1960年代後半の変化に乗らなかった。
大衆が「新しい暮らし」を求め生活スタイルを変えていったけれども、大衆食堂はそれを追わず、そして今に至っている。
それが前回紹介した「開き直り」ということなのでしょう。

「食堂は「近代化」をこばんでいたわけではない。食堂のめしをくって市場へ旅立った大衆のようには、そうは簡単に生業と地域を棄てきれなかったのではないか。マイペースで近代化とつきあったのである。」(p.132)

大衆食堂は生業、すなわち家族の「なりわい」であり、そして地域に密着したものだったから、新しいスタイルには合わせなかった。
その結果、「昭和30年代にして1960年代の「たたずまい」をとどめている大衆食堂」が残された。

次回はその大衆食堂と変化した食生活について触れたいと思います。


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